三淵嘉子プロフィール!学歴や経歴がドラマよりすごい

記事内に広告が含まれています。
三淵嘉子 プロフィール 学歴 経歴 

2024年4月1日スタートのNHK朝ドラ「虎に翼」。主人公・猪爪寅子は、日本初の女性弁護士、判事、裁判長として活躍した三淵嘉子(みぶちよしこ)さんをモデルにしています。

三淵嘉子さんとは、一体どのような人物だったのでしょうか?

この記事では、朝ドラ「虎に翼」猪爪寅子のモデルとなった三淵嘉子さんのwiki風プロフィールをご紹介します。

ドラマ「虎に翼」と合わせて、三淵嘉子さんの人生を見てみましょう。

スポンサーリンク

三淵嘉子プロフィール

朝ドラ「虎に翼」のモデル三淵嘉子(みぶち よしこ)さんのプロフィールをご紹介します。

氏名: 三淵 嘉子(みぶち よしこ)  

生年月日: 1914年11月13日  

出身地: シンガポール  

再婚: 1956年  

死亡年月日: 1984年5月28日  

享年: 69歳  

配偶者: 三淵乾太郎(裁判官)  

主な功績:  

– 日本初の女性弁護士

– 初の女性判事

– 初の女性家庭裁判所長

三淵嘉子さんは1914年、台湾銀行勤務の父・武藤貞雄の長女としてシンガポールで生まれました。その後、父はニューヨーク勤務を経て、1920年に帰国。一家は東京渋谷区に住まいを構えました。

三淵嘉子さんの父は、当時としては非常に民主的な考えを持つ人物でした。幼い嘉子さんには、「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな。男と同じように政治でも経済でも理解できるようになれ。そのためには何か専門の仕事を持つための勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか」と語りかけていたといいます。

お父さんがすごい人ですね。早くから男女平等女性の自立心を持った考えを持っている人は、珍しいと思います。弁護士を目指すきっかけはお父さんの影響が強いんですね。

三淵嘉子の最初の結婚

三淵嘉子さんは、1941年(昭和16年)に、武藤家に書生として出入りしていた和田芳夫さんと結婚しました。しかし、時代は戦争真っ只中。結婚後わずか1年半で、和田さんは徴兵され、戦地へと旅立ちます。

その後、福島へ疎開。戦争の混乱の中、夫との連絡は途絶えがちになっていました。そして、1946年、悲劇が訪れます。和田さんは戦病死し、三淵嘉子さんの元にその知らせが届いたのです。

当時、三淵嘉子さんは幼い息子を抱えており、夫の死に目に会うことも叶いませんでした。戦争という過酷な状況の中、わずか5年という短い結婚生活に終止符が打たれてしまったのです。

このシーンは本当に泣けます。▼

\夫役の仲野太賀さんもすごい!/

三淵嘉子は裁判官と再婚

三淵嘉子さんは1956年、41歳の時に最高裁判所調査官であった三淵乾太郎さんと再婚しました。乾太郎さん自身も再婚で、前妻を病気で亡くし、1男3女の子供がいました。

三淵嘉子さんは再婚後は、いっきに5人の母親となり、仕事と家庭の両立で、日々、奮闘していました。

再婚相手の三淵乾太郎さんは、彼女の良き理解者であり、協力者でもあり、キャリアを成し遂げたい彼女を支え続けていました。

三淵嘉子さんは、困難にも負けず、母としても強い意志で、戦争の時代を生き抜いてきたんですね。

三淵嘉子の学歴は?

三淵嘉子さんの学歴を見ていきましょう。

男尊女卑の風潮が色濃く残る時代、三淵嘉子は東京府青山師範学校附属小学校を卒業。幼い頃から勉学に励み、類まれな才能を開花させます。

当時の女性にとって、高等教育は容易ではありませんでした。しかし、周囲の反対を押し切り、猛勉強を重ねます。そして、ついに難関である東京女子大学高等師範部英文科へ入学します。

三淵嘉子出身高校

東京女子大学高等師範部英文科卒業しています。現在のお茶の水女子大附属高校出身です。

お茶の水女子大学附属高等学校は、東京都文京区に位置し、女子校として知られています。2024年度の偏差値は78で、東京都内の国立高校で1位、東京都内全体で2位にランクされています。

この学校は、進学実績も非常に優れており、多くの生徒が有名大学へ進学しています。お茶の水女子大学附属高校は、日本の法曹界で活躍した三淵嘉子さんの母校でもあります。

ちなみに、お茶の水女子大学附属中学校の偏差値は67.0です。

三淵嘉子が法律を学んだ大学は明治大学

三淵嘉子さんは男尊女卑の風潮が根強く残る時代。当時女性が法律を学べる唯一の大学であった明治大学専門部女子部に入学を果たします。

  • 1932年:明治大学専門部女子部法科入学
  • 1935年:明治大学専門部女子部法科卒業
  • 1935年に同法科を卒業後、さらに明治大学法学部に編入し、1938年に卒業

1932年、三淵嘉子さんは明治大学専門部女子部法科に入学しました。当時、大学における女性学生は非常に少数で、男性学生とは全く交流のない生活を送っていました。女子学生は常に教室の前の方に固まって座り、授業外でも女子だけで行動することが多かったようです。

三淵嘉子さんの存在は、当時の明大の男子学生にとって、女性に対する固定観念を打破するきっかけとなりました。女性も男性と同等に学問を修めることができる!という事実を目の当たりにし、競争意識を高めた学生も多かったでしょう。

周囲の反対や偏見を乗り越え、嘉子は猛勉強に励みます。そして、1935年に明治大学法学部へと進学し、1938年に明治大学法学部卒業されています。

三淵嘉子の経歴がテレビで見るよりすごい!

三淵嘉子さんの経歴を見ていきましょう。

男尊女卑の時代において、女性が社会で活躍することへの道を切り拓き、どう生きてきたのでしょうか。

1938年11月、三淵嘉子さんは、中田正子、久米愛と共に、女性初の司法科試験合格者となり、女性初の弁護士なりました。当時、女性が弁護士資格を取得することは非常に困難であり、彼女たちの合格は大きな社会的なニュースとなりました。

新聞のインタビューで、三淵嘉子さんは将来の目標について以下のように語っています。

之から先の方針も未だ決まって居りません状態です。仮令若し弁護士になるに致しましても職業として立って行くと云ふよりは、只管不幸な方々の御相談相手として少しでも御力になりたいと思って居ります。

https://www.meiji.ac.jp/

三淵嘉子さんは、男女差別の時代風潮に配慮しながらも、女性のための弁護士不幸な人々の相談相手になるという強い決意を表明していました。

その後、は第二東京弁護士会での修習を終え、1940年6月に弁護士登録を果たしました。しかし、第二次世界大戦の勃発により、民事事件が減少したため、弁護士としての活動はほとんどできませんでした。

戦後の女性裁判官になるため奮闘

戦時下、三淵嘉子さんは母校である明治大学専門部女子部法科の助手、助教授として後進の指導に当たりました。戦後の混乱期にも、司法官任用試験合格者や弁護士を多数輩出するなど、教育者として大きな功績を残しました。

それと司法省への採用を強く希望していました。しかし、当時の社会情勢において、女性が裁判官になることは容易ではありませんでした。三淵嘉子さんの願いは叶わず、裁判官としての道を歩むことは難しいと判断されたのです。

しかし、彼女の情熱はそこで消えることはありませんでした。司法省は、裁判官としての必要な知識を学ぶ機会を与えてくれます。

三淵嘉子さんは司法省民事部に入り、民法・家事審判法の立法作業に携わりました。その後、最高裁判所が発足すると、事務局民事部第三課(家庭局)で親族法、相続法、家事審判所の問題に取り組みました。

1949年、三淵嘉子さんは明治女子部教授に就任します。そして同年6月、ついに悲願が叶い、東京地裁民事部の判事補に任命されました。女性2番目の裁判官誕生という快挙でした。当時、近藤完彌裁判長から「女性だからといって特別扱いはしない」と言われた嘉子は、むしろ男性と平等に扱われることに喜びを感じたといいます。

男女差別が根強い時代を生き抜いた嘉子は、建前論で平等を主張するよりも、実績を積み重ね、女性でも仕事ができることを社会に示すことが重要だと考えていました。その信念を胸に、彼女は精力的に職務に取り組みました。

1952年、嘉子は初の女性判事に昇進します。そして1956年、東京地裁判事となった彼女は、広島と長崎の被爆者が原爆投下の責任を訴えた原爆裁判を担当することになります。

1963年、原爆裁判の判決は請求を棄却しましたが、日本の裁判所としては初めて「原爆投下は国際法違反」と明言する歴史的な判決となりました。嘉子判事の強い信念と努力が、この画期的な判決に大きく貢献したと言えるでしょう。

下記にわかりやすく経歴をまとめました。

女性初の判事

  • 1949年(昭和24年)東京地方裁判所判事補に任命
  • 1952年(昭和27年)名古屋地方裁判所判事に就任
  • 1956年(昭和31年)東京地方裁判所判事に異動
  • 1963年(昭和38年)広島地裁・長崎地裁「原爆訴訟」担当判事
  • 1972年(昭和47年)新潟家庭裁判所長に就任(女性初の家庭裁判所長)
  • 1973年(昭和48年)浦和地裁所長に就任
  • 1979年(昭和54年)退官
  • 1978年(昭和53年)横浜地裁所長に就任

4. その後

  • 1980年(昭和55年)弁護士に復帰
  • 1984年(昭和59年)69歳で死去
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

裁判官 三淵嘉子の生涯 (潮文庫) [ 伊多波 碧 ]
価格:880円(税込、送料無料) (2024/6/1時点)


三淵嘉子が家庭裁判所の母と呼ばれた理由は?

三淵嘉子が「家庭裁判所の母」と呼ばれる理由は5つが挙げられます。

少年少女の健全育成に尽力した

家庭裁判所の少年部で審判を担当し、5000人以上の少年少女の審判に関わりました。少年法の基本理念である「少年の健全育成」を常に念頭に置き、一人ひとりに寄り添いながら、更生への道を導きました。

家庭裁判所の理念の実現に貢献した

「家庭に光を、少年に愛を」という標語を掲げ、家庭裁判所を単なる裁判所ではなく、「福祉の場」として位置づけました。当事者にとって温かく居心地の良い空間を作り、問題解決だけでなく、心のケアにも力を注ぎました。

女性初の家庭裁判所長として活躍した

1972年に新潟家庭裁判所長に任命され、女性初の家庭裁判所長となりました。その後も各地の家庭裁判所で辣腕を振るい、家庭裁判所の運営と改善に大きく貢献しました。

家庭裁判所を身近なものにした

横浜家庭裁判所長時代には、調停室の壁を明るい色に変え、絵画を飾り、音楽を流すなど、親しみやすい空間作りに努めました。また、少年事件や家事事件について各地で講演を行い、一般の人々に家庭裁判所の役割を理解してもらうために尽力しました。

男女平等の実現に向けて声を上げた

女性裁判官に対する差別が存在する中、最高裁人事局長や司法研修事務局長・教官の発言に対して直接抗議するなど、強い意志と行動力で男女平等の実現に貢献しました。


三淵嘉子さんは、エリート意識をもたないこといつも意識していたそうです。女子部出身の女性たちにはエリート意識を持たずに、一人前の人間として自立していくことを伝えていました。

そして、三淵嘉子さんは、1984年69歳でお亡くなりになりました。葬儀と告別式には、2千人近い人が訪れました。

多くの人をどれだけ助けてきたのか、人生に寄り添い、携わってきたのかが、わかりますね。

まとめ

朝ドラ「虎に翼」の主人公、猪爪寅子のモデルは、日本初の女性弁護士である三淵嘉子さんです。彼女のWiki風プロフィールを紹介しました。

彼女は法曹界で女性が活躍する道を切り開き、多くの困難を乗り越えてきました。彼女の生涯と業績は、今日の日本の法曹界に大きな影響を与えています。

朝ドラよりも、スケールの大きな三淵嘉子さんでした。